
黙っていて拾うという、そういう認識は余りないという感じがしています。
司馬遼太郎さんが亡くなられたものですから、司馬遼太郎さんの本をずっと読んでいるんですけれども、司馬さんは、最後は産経新聞に「風塵抄」というのを月1回書いておられまして、これが最後の連載になったわけです。その前に週刊朝日に「街道をゆく」という、三浦半島のことをお書きになっていましたが、この「風塵抄」を読むと、この1年ぐらいは日本人に対する遺言を書いておられるのではないかなという気がするほど、今の日本人の状況に対して、失望と嘆きがいっぱいですね。
その中で司馬さんが物すごく言っておられるのは、日本人の美しい行為というか、美しい生き方というのは実直ということであると。実直に生きるこれが明治以来、あるいは江戸もそうだったと思いますが、日本人の価値であった。今、その実直という言葉を日本の価値にして、世界中にこれを発信できるというふうに書いておられる。
例えば、これは87歳の英男翁という、名字は書いていないんですが、その人が昔の高等小学校を出て、岩手銀行の遠野支店に勤めた。この15才の少年が、銀行に貯金が10万円たまると、それを全部十円札にして、ふろしき包みにそのお金を入れて背中に担いで、そして釜石の店までみんなの貯金を持っていくんですね。そういうふうにして15歳の、向こうではわらしと言うらしいですが、わらしがふろしき包みを担いで現金を持って、仙人峠とかいう大変厳しい峠があって、その峠を越えていく。そうすると、沿道の村の人たちがお茶を出したり、「ご苦労さん、頑張れよ」と声をかける何でか。自分らが預けたお金を持っていってくれるという感謝ですね。
今どき、そんなことがもしわかったら、それこそすぐ強盗が出てきて袋ごと持っていくだろうと思うんですが、そういう関係でお金を運べる、運んだ人も実直だけれども、運んでもらった村の人たちも実直で、自分らが汗水垂らしてためたお金を、こうやって大事に持っていってくれるこういう雰囲気の日本だったというのを情熱をこめて書いておられるんですけれども、そういう実直さを世界に発信できるのではないかということを強調しておられます。
きょうは青年の家が何を価値観として掲げてこれから運営をしていったらいいのかと、いろいろ考えてみたんですが、先ほど内田さんがおっしゃった、去年やった国立青年の家・少年自然の家の改善についてという、この報告をまとめるに当たって何回か会議をやって、その中で末次一郎さんに、青年の家ができる前、そしてできた後の経過を伺ったことがあります。そのときに私、興味を持ったのは、当時ちょうど昭和34年ですか。35年が安保の年ですよね。それから池田内閣の所得倍増にいくわけで、いわば高度経済成長のまず取っかかりのところに、青年の家という新しい施設ができたわけです。
当時は安保の是非でゆれていて学生がデモに行って、反米、親ソ。社会主義に親近感を持って、アメリカに対しては嫌悪感を持つという、そういうムードが全体にありました。それから、体制を否定するような考え方もありましたし、そういう冷戦構造の中で、これではいかん。このまま若者が、悪い言葉で言えば、社会主義かぶれしては困るというふうな、そういう気持ちもあったんでしょうかと伺ったら、それがすべてではないけれども、そういう気持ちはあった。頭でっかちに理論はつかり勉強して、現実を知らずに、何かあるイデオロギーにワーッと行っちゃうというふうな風潮を止めたいという気持ちは確かにあったというお話でありました。
青年の家の−これは国立の場合で、公立の場合はまたちょっと違うかもしれませんが、決めつけて言うと、国民としての青年、国民としての若者を育てる。1人の国民として健全な育ち方をしてほしいというねらいが1つあったと思います。そういうところから、日の丸の国旗の掲揚とか、朝礼とか、いろんな規則遵守とか、粗末なものに耐えるとか、あるいは、集団訓練の中で自己を生かすとか、そういうやり方が出てきたんだろうと思います。
今、そこから35年たって、どう変わっていくべきかという1つの答えは、まさに冷戦構造が崩壊して、世界的に見ると小さな民族同士の争いというのが局地的に起こっているような状況であります。そういう状況を踏まえて、しかも去年の段階では、安保で対立していた社会党と自民党が連立内閣をつくって、当時の総三里大臣は村山さんですから、まさにコ
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